昨今、とても重要なキーワードが RESPECT なのではないかと思ったので、ちょっとブログを書いてみます。
● iSummit2007でLawrence Lessigが語った RESPECT
下記は一昨年クロアチアのドブロフニクで開催された
iSummit2007 での Lessig 教授の基調講演の映像です。クリエイティブ・コモンズ(CC)の提唱者である Lessig 教授が、軸足を「政治腐敗と戦う」ことに移すという発表をした時の有名なスピーチです。
30分のスピーチの中の、キーワードの一つが「RESPECT(リスペクト・敬意)」でした。
CCを推進していく中で、今までLessig教授はアーチストを貧乏にさせるつもりかとかアーチストにリスペクトはないのかとか様々な攻撃の矢面に立ってきました。たいていはわかってない人たち "Those who don't get it" からの攻撃。それらに対して、これからは君たちみんなが戦うんだ、と伝えています。
CCは著作権を否定するものではなく、クリエイター(作家・アーチスト・科学者や教師など)自身が自分が作った作品について選ぶライセンスの選択肢を持つべきだと主張しています。
CCを使ったからといってクリエイターがお金儲けができなくなるというものではありません。
CCライセンスを採用しながらビジネスモデルを構築している例もいくつかあります。また、同じクリエイターでもお金を取るか取らないかは場合にもよります。Lessig教授が挙げた例は「例えばBritney Spearsは歌を歌ってお金を得る場合もあるだろうけれども自分の子供に歌を歌って聞かせるときにお金は取らないでしょう。」というもの。これは極端な例ですが、同じアーチストでもお金を得ることが目的の作品もあればお金以外の目的(わかちあうこと・sharing)が目的の作品もある。同じ作品でもお金を得る目的のパフォーマンスもあればお金以外の目的(わかちあうこと・sharing)が目的のパフォーマンスもある。CISACやJASRACの意向がどうのとかは置いておいて、アーチスト本人の意向は色々ある、ということです。CCはCCをアーチストに「押し付けている」のではなく、一つの選択肢として提示しているにすぎません。
CCではクリエイターはRESPECTされるべきであると考えています。(コメントでの指摘により、以下削除します。初期の頃のCCライセンスにはAttributionなしの物もあり、現在のCCライセンスが全てAttribution必須になっているのはAttributionなしのライセンスを選ぶ人が少なかったからという人々の選択の結果であって、RESPECTがあるからではないためです。ご指摘ありがとうございました!)だからこそ作品を再利用したりマッシュアップしたりするときには原著作物のクリエイターの名前を掲載することがCCの全てのライセンスにおいて必須になっています (attribution)。
Lessig教授はスピーチの中で、CCやオープンカルチャーのムーブメントをサポートしている「我々の活動もRESPECTされるべき "We deserve respect" 」だと語り、「わかってもらうためにはわかってもらうためのアクションを起こすべき」であり、「謙虚なだけではだめだ」 "No More Mr. Nice Guy" だと語っています。
このRESPECTという単語が色々なところでのキーワードとしてつながっているような気がしてなりません。
● iSummit2008で角川歴彦会長が語った RESPECT
一年後の iSummit2008 は日本の札幌で開催され、角川グループホールディングスの角川歴彦会長に基調講演をお願いしたのですが、その際に YouTube の角川チャンネルで MAD 作品を公認していく取り組みについて語られました。講演の中では「
キーワードは愛。作品に対する敬意があれば、そのMADを認めていく。」と語っておられ、コンテンツホルダーとして実際にそれを実践してみせておられます。
CNet記事より引用:
「作家が嫌がるMAD(二次創作動画)は排除するが、作品への敬意があるMADは認めていく。キーワードは『愛』。コンテンツに対する尊敬があれば、我々はそのMADを認める」――角川グループホールディングス(角川HD)代表取締役会長兼CEOの角川歴彦氏が8月1日、札幌で開催された著作権に関するイベント「iSummit '08, Sapporo」に登場。YouTubeなどに投稿されているMADへの思いを明らかにした。
iSummiit2008 での Lessig 教授と角川会長の貴重なツーショット。
● ニコニコ動画の中での RESPECT
ニコニコ動画の中には様々なコメントが飛び交い、荒らし行為(
特定の動画や投稿者を攻撃するコメント)のような物が見受けられるのも事実です。しかし多くのユーザは動画を作れないわけで
、動画を作る人(歌ったり踊ったり電子工作をしたりする人など)に対しては高い敬意を表していると思います。「うp乙(アップロードしてくれてありがとう!)」のようなコメントもよく見かけます。また、歌うのが上手い方も電子工作はできなかったり、絵が上手い人も演奏はできなかったりと人それぞれ得手不得手は異なります。たいていの人は(興味があるにせよないにせよ)自分が得意ではないジャンルで優れた才能を持つ人をニコニコ動画で見つけることができるでしょう。そしてそれに対して
プロアマ問わずお互いに惜しみない賞賛を与えています。例えばプロの漫画家グループの
CLAMPさん (
X, コードギアス, リグヴェーダ, XXX Holicなど)はニコニコ動画で見つけた音楽にほれ込み絵をつけさせてもらったととのことで、その動画がこちら。プロのノンフィクション作家、科学ジャーナリストの松浦晋也さんはニコニコ動画で出会った数多くの初音ミク/VOCALOID作品のすばらしさについてブログでおおいに語っておられます。先日のブログでも書いた通り「ARToolkitで距離を表示してみた」という動画は、ARについて研究しておられる大学教授をもうならせる作品でした。また、「機動警察パトレイバー」や「究極超人あ~る」などで有名なプロ漫画家のゆうきまさみさんもニコニコしています。(※ちなみにプロが作品をニコニコ動画に投稿することも多く、その場合「先生何やってんすか」「先生仕事してください」「プロの犯行」等、愛情たっぷりの(ツンデレ?)コメントが寄せられることが多いようです。それらの「プロの犯行」をまとめた方がいらっしゃったのでご紹介しておきます。)
ニコニコ動画の中にはたくさんの動画コンテンツやMAD作品があふれており、中には削除対象となるようなコンテンツもあります。ニコニコ動画の違法コンテンツの削除プロセスには以下の3つがあります。
1)ニコニコ動画の運営側が雇っている「削除人」が監視しており、見つけ次第削除
2)コンテンツホルダーが通報して削除
3)ユーザが通報して削除。
おそらく前2者が多いのではないかと思うのですが、実はユーザの中では、「これはセーフ、これはアウト」というような暗黙のルールが存在しているようです。その暗黙のルールに反したことを行うユーザは、すぐに他のユーザから袋叩きのコメントを受け、動画は削除されてしまう。そこには色々なルールがあるようですが、例えば有料のパッケージコンテンツ(CDやDVD)などをそのままアップロードするなどの行為を行うと「クリエイターがどうやって食べてると思っているのですか」「非常識」「通報しますた」のようなコメントがあふれます。
クリエイターがいるから我々がよい作品を楽しむことができるということ・クリエイターの方たちも食べていかなければいけないことを理解し、
クリエイターの方への感謝と敬意はきちんともっているユーザが多いということだと思います。もちろん全員がそうだとは言いませんが。(※ちなみに、動画をプロモーション・お金儲けのためにアップすると嫌われ、ネガティブなコメントが殺到してしまう現象を「
嫌儲」といいます。ニコニコ動画内の嫌儲については
ニコニコ大百科の記事が詳しいです。その逆が「
振り込めない詐欺」に代表される、ユーザーがお金を払いたくなるほど素晴らしい動画やツールを無償で公開した作者に対して表される敬意と感謝の気持ちのコメントやタグです。)
ところで、何故今頃こんな懐古をしているかというと、最近日米で起きていた「オープンソース」についての議論について思うところがあったからです。
● 日本で起きたオープンソース論議1(オープンソースの定義)
以降梅田望夫さんの引用が多くありますが、私は梅田さんはオープンソースの素晴らしさをわかっておられた上で書いたり話しておられると思っております。ただ、彼のインタビューや記事等が議論の発端になっていることが多いので、引用させて頂いています。批判をするためではなく、建設的にしたいなあというのが私の思いです。
もう議論は一周してしまっているので今更説明はいらないと思いますが (^^;;
ウェブ進化論等の書籍で有名なシリコンバレー在住のコンサルタント梅田望夫さんがフォーブスに3月に掲載された「目からうろこが何枚も落ちたオープンソースの“人間的本質”」という記事の中でRubyの開発者まつもとゆきひろさんとインタビューを行っており、オープンソース開発に参加する人々の動機について質問をしています。記事自体は大変興味深い。ただ、この中の「オープンソース」という単語の定義が間違っているのでは?との指摘が行われました。いわく、
梅田さん:「オープンソースとは、ソフトウェアのソースコード(人が記述したプログラムそのもの)をネット上に無償公開し、世界中の不特定多数の開発者が自由に参加できる環境を用意し、そのソフトウェアをさらに開発していく方式のことだ。」
全然違います。 「無償公開」する必要は全然ありません。 金を取って公開しても構いません。 利用や再配布に制限を行わないからといって、 何もかも無料で公開しろなんてルールはどこにもありません。
「世界中の不特定多数」が参加する必要もないし、 そういう環境を提供する必要もありません。 完璧に違うことと勘違いしていらっしゃいます。
「開発していく方式」のことでもありません。 オープンソースというものは、 あくまでライセンスでこうだったらオープンソース、そうでなかったらオープンソースでない、という条件を定めているだけです。
無償公開でなくてもよいというのはそうですね。私もお金を払ってオープンソースのハード・ソフトを使ったことあります。そういえば先日オープンソースハードウェアを作っておられる Mitch Altman さんの通訳を務めさせて頂いた時に、会場内で通りがかった人から「オープンソースなのにキットを買うのにお金払わなきゃいけないの?無料ならいいけど。」と言われて悲しい思いをしました。ソフトももちろん無料でできるわけではないけれど、ハードのキットなんて無料で差し上げていたら部品代だけで大赤字になっちゃいます (> <)
世界中の不特定多数が参加する必要もないというのも必須ではないのでしょうね。ただ、成功したオープンソースプロジェクトには世界中の不特定多数の人たちが参加して盛り上がっていくということはあるのでしょうが。。。
開発方式なのかライセンスなのかについては単純ではないようなので細かく見ていく必要があるようです。
● 「オープンソースの定義」と「オープンソースのソフトウェア」と「オープンソースのライセンス」と「オープンソースという開発手法」について
私立文系非エンジニアの私がこのパラグラフの内容を理解し、そして記述するために、
八田真行さんのSourceForge.jp記事「オープンソースの二つの意味」を抜粋引用させて頂いております。是非元記事をお読み頂ければと思います。
「オープンソースの定義」
(1)オープンソース・ライセンスには、再頒布に関する制限が設けられていてはならない
(2)プログラムにはソース・コードが添付されていること。また、ソース・コードでの頒布も許可されていること
(3)オープンソース・ライセンスでは、ソフトウェアの改変、派生ソフトウェアの作成、また派生元ソフトウェアと同じライセンスの下での再頒布を許可すること
(4)ソース・コードと一緒に、バイナリ構築の際にプログラムを改変するための「パッチ・ファイル」を頒布することを認める場合に限り、オープンソース・ライセンスによって、改変されたソース・コードの頒布を制限することができる
(5)オープンソース・ライセンスは、特定の個人やグループを差別してはならない
(6)オープンソース・ライセンスは、特定分野でのプログラムの利用を制限してはならない
(7)オープンソース・ライセンスによってプログラムに付与された権利は、そのプログラムが再頒布された者すべてに等しく認められなければならず、何らかの追加的ライセンスに同意することを必要としてはならない
(8)オープンソース・ライセンスは、特定製品でのみ有効なものであってはならない
(9)オープンソース・ライセンスは、そのライセンスが適用されたソフトウェアとともに頒布される他のソフトウェアに制限を課してはならない
(10)オープンソース・ライセンスは、技術的に中立でなければならない
「オープンソースの定義」が試みているのは、ソフトウェアの第三者による利用、特に改変や配布に関して著作権者が課す条件に対し、一定の基準を設けるということである。これにより、法的状態としてのオープンソースが保証されているソフトウェアであれば、個別にはどのようなライセンスが適用されていても、大筋では同等の自由度を持った利用法が認められる。ゆえに、著作権者の顔色を窺わなくとも、誰でも安心して自由に利用できるようになる。これは不特定多数によるソフトウェアの円滑な開発には大変資するもので、開発者や配布者といったソフトウェアの本格的な利用者にとっては非常に重要なことだ。近年では、ソフトウェア以外のコンテンツ一般の文脈においても、このコンセプトが応用されるようになってきた。その一例が、クリエイティヴ・コモンズである。
「オープンソースのソフトウェア」
八田さんの同記事では「ソフトウェア開発における『オープンソース』という言葉は、上記「オープンソースの定義」を満たしたライセンスの下で公開されているソフトウェア、という意味である。」と書かれています。
「オープンソースのライセンス」
「オープンソースの定義」を満たしたライセンスのことを指し、Opensource.orgにはGPLをはじめとして66種類ものライセンスが掲載されています。「オープンソースの定義」自体は、ライセンスではなく、ライセンスのためのフレームワークにすぎません。よって、オープンソース・ソフトウェアを利用する場合には、そのソフトウェアのライセンスの各条項に従うことになります。
「オープンソースという開発手法」
しかし、多くの人が「オープンソース」と聞くと思い浮かべるのは「情報がオープンにされ、世界中の不特定多数のエンジニアが協力して開発が行われるというLinuxやMozillaにおける開発成功談。しかし、これは「バザールモデルであってオープンソースではない」という指摘を色々なところで見ました。
「バザールモデルってそもそも何だっけ?」とか「バザールモデルとオープンソースはなんでごっちゃになっているの?」とか「オープンソースイニシアティブはなぜバイブルとされているの?」という疑問を払拭するために歴史を紐解いてみると、そもそもオープンソースという開発手法が広まるきっかけになったのはRichard Stallman氏が所属する「Free Software Foundation」が「GNU GPL(General Public License)」というライセンスを作成し、それを適用したLinuxが成功を収めたこと。これを受けて『伽藍とバザール』を執筆したEric Raymond氏が「オープンソース」という考え方を提唱し、この開発手法をビジネス界に売り込むための、いわばマーケティング・キャンペーンを展開し、「オープンソース・イニシアティブ(OSI:Open Source Initiative)」という組織を作りました。ここでEric Raymond氏が狙っていたのは、一般ユーザ層へのオープンソースソフトウェアの普及と浸透であり、分かりやすくてキャッチ―な話が必要とされたため、「こうすればソフトウェアの開発はうまく行く」というような、具体的な方法論や成功譚を持ち出したとのことです。そこに合致したのが「ソフトウェア開発において,組織の異なる世界中の技術者が開発を行う」手法 「バザールモデル」とLinuxの成功例。こうして、一般の人が「オープンソースの定義」を知らずしてオープンソースを開発手法とその成功話ありきで認識するようになったということのようです。
なお、「情報やソースコードを『オープンソースの定義に則ったオープンソースとして』は公開していないソフトウェアだがソースコードがおまけでついている」とか「ソースコード等はオープンソースにしないが、APIを公開する」等により、オープンソース「的」に開発を行っているという例はあるので、「『オープンソースの定義による条件』を満たさないとオープンソース的開発はできない」ということではないし、「オープンソース的開発手法を使っていなくても『オープンソースの定義』を満たしていればオープンソースといえる」わけで、「オープンソースの定義」と「オープンソース的開発形態」は必ずしも一致しません。
なぜ「オープンソースの定義」にこだわるべきなのか。「オープンソースの定義を満たさないけれどもソースコードが公開されている」場合の問題点は、「オープンソースの定義」の改変や配布に関する条件を満たしていないため、後で権利者の都合が悪くなれば潰されてしまう可能性もあります。「オープンソースの定義」が素晴らしいのは、権利関係がグレーにならないよう、明確化していることです。単に「ソースコードがオープンな状態である」だけではなく、それを使ってエンジニアが開発を行ったときに生じる様々なことを考えて記述された「オープンソースの定義」に則っていることが重要。。。ということだと思います。
だからこそ、単に「ソースがオープンだからオープンソースだよーん」とか「オープンソース的に開発してるからオープンソースだよーん」と安易に言ってしまうことに対してオープンソースコミュニティに参加している開発者の方々は警鐘を鳴らしているのだということが色々読んでいく中でやっとわかってきました。
● 日本で起きたオープンソース論議2(「オープンソースソフトウェア」と「オープンソフト『的』協力」、そしてそれらは日本に根付いているのかいないのか)
もう一つのオープンソースに関する議論は「イノベーションはなぜ起きたか(上)」というインタビューにおいて梅田さんが「日本にはサブカルチャー領域は別としてオープンソース的な動きが根付いていない」と語られたところから端を発しています。
例えば、インターネットが社会にもたらしたインパクトのひとつに「オープンソース」という考え方があります。これは元々ソフトウエア開発に端を発した概念なのですが、いまやそれにとどまらず、世の中をより良い方向に導くと思われるテーマがネット上で公開されると、そこに無数の知的資源が集結して課題を次々に克服していくといった可能性を含む、より広い応用範囲での思考や行動原理を意味しています。
サブカルチャー領域への応用は少しずつ進んでいるのですが、全体として、こうした動きがいまだに日本では根付いていません。政治とか社会変化がテーマとなると特に、陰湿な誹謗・中傷など「揚げ足取り」のような側面の方が前に出てきていて、ウェブのポジティブな可能性──何か知的資産が生まれそうな萌芽がネット上に公開されると、そうしたことに強い情熱を持った「志向性の共同体」が自然発生して、そこに「集合知(ウィズダム・オブ・クラウズ)」が働き、有志がオープンに協力してある素晴らしい達成をなし遂げるといった公的な貢献──を育む土壌がありません。
この発言は「オープンソースソフトウェア」について語ったわけではなく、日本のネットでの政治・社会的テーマでの「オープンソース的動き」について語っているものだそうですが、オープンソースコミュニティの方たちを中心に激論が起きてしまいました。日本人のオープンソースコミュニティへの貢献度をないがしろにしないでくださいと。たいていのオープンソースプロジェクトは無名のままだけれども、みんながんばってやっているのを台無しにしないでくださいと。
梅田望夫にオープンソースを語るなとガツンと申し上げたいというひがやすをさんのブログ記事がその発端になっています。
そもそも、
「オープンソフト『的』協力」とは何をさすのか。
梅田さんはご自身の著書「シリコンバレーから将棋を観る」について、「何語に翻訳しても自由」と4月に宣言し、5月には英訳・仏訳プロジェクトがスタートしたことを受け、「オープンソース的協力が成立する要件についての実験と考察」という記事をアップされました。
「ウェブ進化論」以降の一連の著作の中で、オープンソース現象や、オープンソース的協力の可能性について論じてきた。そして、同時代的に実験が続いていてまだ解がはっきりわかっていない「オープンソース的協力の成立要件」について、これまでずっと考え続けてきた。そしてその大切な要件のいくつかを満たす条件が整うチャンスがあれば、自分でも挑戦してみようと思っていた。
プロジェクトの中核に、尋常でない情熱が宿っていること。
そのプロジェクト自身に大きな意義がありそうに思えること。
プロジェクト・リーダーの私的な利益に供しないこと。
オープンソース的協力がなければプロジェクト自体が成立しないだろうこと。
プロジェクトに参加するために必要なスキルがわかりやすいこと。
これが梅田さんの定義する「オープンソフト『的』協力の成立要件」。ソフトウェアとしての「オープンソース」とは全く別のものとして、社会的な「オープンソース的協力」という概念について話しておられます。
「オープンソース的協力が日本に根付いているか」
それでは、その条件に合致するようなプロジェクトが日本にどのくらいあるのかなと。先の
ひがさんのエントリーのコメントにいくつか挙がっているようでしたので紹介しておきたいと思います。
著作権の消滅した書籍等の作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされた作品を、ネットで公開しているプロジェクト。 著作権上問題のない様々な作品を翻訳するプロジェクト。「青空文庫の翻訳版だと思ってほしい」そうです。
日本の風土にあった木の家の作り方を公開、共有化しているプロジェクトだそうです。
**7/8追記**
はてなブックマークのコメントでid:SUMさんからWiki文化・WikipediaとOpenStreetMap Japanは?とのご意見を頂きました。
これは素晴らしいプロジェクト。
クリエイティブコモンズのBY-SAライセンスで公開されています。
日本発くくりで考えていたということで入れていなかったのですが、もちろん日本でも多くの貢献者がいる無料のオンライン百科事典です。
もちろんニコニコ動画等を見ていると、1)尋常ではない情熱があり、3)私的な利益に供さず、4)オープンソース的協力がなければ成立せず、5)必要スキルがわかりやすい。。。というプロジェクトは山ほどあると思います。そこに2)大きな意義があるかどうかは考え方次第で、最初は大きな意義がない遊び本位のプロジェクトでも、そこからどんどん意義が膨らんできて素晴らしいものができることもありますし、「サブカルじゃん」で切っちゃうのはもったいないと思います。 「オープンソフト『的』社会プロジェクト」が日本で根付いているか根付いていないか、事例が多いか少ないかは評価できないけれど、こういった議論をきっかけに、水面下でひっそりと行われていた良質かつ大きな意義を持つプロジェクトがどんどん表に出てきてくれればいいなあと思います。
「オープンソースソフトウェアが日本に根付いているか」
これはまた別の議論。もちろんRubyの開発者まつもとさんが世界に誇るべきエンジニアなのはもちろんですが、それ以外のオープンソースプロジェクト参加者もたくさんいるはず。ひがさんのエントリーには、「日本のオープンソースの現状について、Linux kernelに特化した資料ですが、commit数:日本 5番目/67ヶ国中(4440件/110290件)参加人数:日本 5番目/67ヶ国中(111名/4373名)」というデータがコメントで寄せられていました。(ただしcommit数は世界5番目とはいってもアメリカの1/5以下) 日本発のオープンソースプロジェクトでRubyほど大きくはなくても頑張っている物もあるし、成功しなくても頑張ってきた人たちはいるし、海外発のプロジェクトに貢献している日本人もいっぱいいる。でも、それを数値化するのって難しい。
あきみちさんもGeekなページというブログで「オープンソースに貢献する日本人エンジニアが少ない理由」という記事を書いておられ、その中で「確かに『このオープンソースプロジェクトは日本人が多大な貢献してるぜ!』リストを作るのは重要ですね。 それを見た人が勇気付けられ、やる気になってくれる可能性があると思います。」と書いておられます。というわけでその下に書かれていたリストを引用:
- Ruby(日本、まつもとゆきひろ氏)
- IPv6(日本、Itojun氏、KAME、USAGI)
- KOffice and KSpread(インドネシア、Ariya Hidayat氏)
- Apache AXIS Webサービススタック(スリランカ)
- Seasar2アプリケーションフレームワーク(日本)
- JFox (a J2EE container) and Orbas (a CORBA implentation)、(中国)
- Sylpheed(日本、山本博之氏)
- GCC and libc、(H.J.Lu氏)
- Hermes H2O open source AS2 Messaging Gateway(香港)
- Postgresql(日本、井上博史氏, 斉藤 浩氏, 石井達夫氏)
- その他、Linux、PHPなどの「メインストリーム」に参加した無数のアジアン。例えばFreeBSDはアジア人が多い。
いや、絶対もっとあるはず! :D でもまずは作るところから。。。
**7/7追記**
たとえば、帳票のけい線をきっちりキレイに印刷するといったことについては、日本人技術者の感性が非常に適していると思っています。またシステムにバグがあることが判明した場合、その原因究明や修正についても、日本人は非常に優れています。そうした技術に対する感性を実装したいのです。<中略>
日本から海外への発信という点で、工内氏が強調するのが、開発を競うシンポジウムである「Ottawa Linux Symposium」で日本人発言者が増加していることだ。この7月に開催された同シンポジウムでは、日本人が4人発言しているという。また、シンポジウムとは別に、開発コミュニティー本来の活動の中で、日本から出たパッチは質・量がともに向上しているともいう。さらには、日本人が開発した機能がLinuxカーネルに取り入れられているという事例も出てきている。<中略>
「Fault Injectionは、ソフトの品質を高めるうえで非常に有用で、いかにも日本人らしい発想ですが、開発コミュニティーの中核メンバーにも非常に受け入れられて、実装されました。しかし、この機能が日本人によるものだということがあまり知られていなかった。こうしたことを日本人にももっと知ってもらって、日本からの提案をもっと増やしたいと思っています」(工内氏)
なるほど。日本人の活躍も増えてきていて、技術や感性も優れている日本人エンジニア達。ただ、それらの活躍が日本人によるものだということはあまり知られていないということのようですね。
Twitterで@jj1bdxさんから「日本云々の話をするなら,FreeBSD/OpenBSD/NetBSDのコミッターやport maintainer,それからLinux,特にDebianやUbuntuに関する話もしておくべきだと思います.」とのコメントを頂きました。というわけで下記追記します。
FreeBSD Foundationの役員に日本人の佐藤広生氏が選出。同氏はFreeBSD core teamのメンバを務めるほかAsiaBSDConの運用で中心的役割を果たしている。また、パッケージシステムであるportsのメンテナーやカーネル開発者として日本人のコミッターが多数参加しているとのこと。FreeBSDのディベロッパーのリストはこちら。日本人のお名前が見受けられます。
シャープ製パーソナルコンピュータ「X68000」シリーズ上でNetBSDが動くようにしたのは日本人であり、日本人の開発者も多いとのこと。NetBSDのディベロッパーのリストはこちら。日本人のお名前が見受けられます。「NetBSDには開発者が全部で322人いて、そのうち50人くらいが日本人」との噂も。
1000名以上のメンバーのうち、日本人の開発者は40人ほどとのこと。
OpenBSDとUbuntuに関してはちょっと数字が見つからなかったのですが、日本人エンジニアの皆さんが活躍されているとのこと。
**追記終了**
● 日本で起きたオープンソース論議3(オープンソースのクオリティ)
もう一つ。梅田さんの「オープンソース的協力が成立する要件についての実験と考察」という記事に対して、(オープンソースは無料とは限らないし、内容がオープンソースではなくバザール方式についてだし、)オープンソースだから質が悪くてもOKというのはオープンソースに対して失礼なのではないかという指摘が入りました。
オープンソースのソフトウェアで質の高いものはたくさんあります。ちなみに私が最近興味があるのはオープンソースのハードウェアの方なのですが、昔のシンセサイザーで販売停止されてしまったものがあったということで、シンセサイザーを作ってオープンソースライセンスで公開したのよ、買うこともできるわよーという驚くべき女性 Limor Fried さんにお会いして感動したのですが、素晴らしいものはたくさんあります。
ここまで言葉の定義について細々と見てきておいてなんですが、結局のところ一番重要なことはオープンソースプロジェクトで頑張っているソフトウェアのエンジニアやハードウェアのエンジニア、そしてエンジニアではなくとも、「オープンソース『的』プロジェクト」に関わっている人たちへの RESPECT が感じられるかどうかの重要性が一番大きいのではないかなあと思った次第でした。
● アメリカで起きた小さな「事件」
TEDカンファレンスという世界中から有識者が集まるカンファレンスがあり、そのカンファレンスの中で行われたスピーチはクリエイティブ・コモンズライセンスで公開され、カンファレンスに参加していない人もみんな見ることができるようになっています。
私はTEDが大好きなので公開されるビデオをよく見たりもしているのですが、先月公開された一つの動画についてふと。内容としてはARについて紹介するちょろっとした短いもので、画面にオブジェクトを3Dで見せては会場が「おー!」と沸く。ズームさせたり引いたりするとまた「おー!」と沸く。そしてぐるっと回転させると益々沸く会場。確かに日本でも一般の方にARを見せたら驚かれるのかもしれないけれど、既に「もうマーカーで3Dオブジェクト出してるだけはもう飽きた!」ということで開催されたVR,ARの先のXRを探そうという「VRARXR勉強会」が開催されて大学生とかが山ほどプレゼンしている感覚とのギャップ。更にもう一つ、このプレゼンテーターが自分が作ったプロジェクトを出しているならともかくちょろっとARのデモを見せているだけなのに、あたかも自分の作品であるかのように見せており「え?それってあなたが作ったものなの?」という違和感。
案の定その動画はオープンソースコミュニティの人たちからたくさんのコメントが寄せられ、「このプレゼンテーターはPapervisionとFLARtoolkit2つの偉大なオープンソース・プロジェクトについて言及しないことによりわざと手柄を横取りしており、TEDの信憑性を落としている。」などと書かれ、結果的にTED側はそのビデオを削除するに至りました。
これもやはりオープンソースプロジェクトをやってきている人たちへの RESPECT が感じられないということによる問題だったのではないかと思います。
オープンソースプロジェクトの成果物は、結果として表に出すときに有償の場合も無償の場合もあるけれども、作るときのハードや人件費など考えると無料でできているものではなく、かつ有償の場合もそれでお金儲けをしてがっぽがっぽしようという意思の元に行われているものではあまりないと思います。だからこそ、RESPECTするということが非常に重要なのであって、そういったお金とは別の価値の重要性を理解することが非常に重要なのではないかと思いました。
● 最後に
冒頭に戻るのですが、 クリエイティブ・コモンズが様々な人から無理解と攻撃を受けていた頃、 Lessig 教授は「もっとここにいるみんなが声を上げて、その素晴らしさを伝えていくべき」「我々の活動はもっとRESPECTされるてしかるべき」だと語り、「わかってもらうためにはわかってもらうためのアクションを起こすべき」で、「謙虚なだけではだめなんだ」と説いていたのですが、オープンソースもそういうことなんじゃないかと思えました。
日本のオープンソースエンジニア達がすごく活躍しているのであれば、それを声をあげて伝え、日本のオープンソース的プロジェクトが非常に素晴らしいのであればそれを声をあげて伝えていければと思います。それは安易な売名とかではなく、エネルギーをかけて優れたものを産み出してきた人達への正当な評価として。
Comments
というのは少し違います。 CC-license で attribution が必須になったのはバージョン2.0以降です。最初の CC-license では attribution も省略可能なオプションでした。が,実際の利用動向を見てみると attribution を含むライセンス選択を行う場合が殆どだったため,ライセンスの管理や利便性のため 2.0 からは attribution が必須になっています。言わばこれは, CC-license 利用者の選択によるもの,と考えることができます。